★大厩館
村田川左岸。標高8.5mの微高地に立地。館の範囲は辺約250m方形か。「堀之内」、「本郷」、「屋敷」、「沼の門」、「門」、「家の下」などの城館に関連する可能性のある字名が残る。上記写真は耕地整理が行われる以前の時点に撮影されたものであり、地表面の状態から城館跡の存在をうかがうことのできる貴重な資料である。水堀の痕跡など、耕地整理をへた現在では、現地で地表面を観察しても確認困難である。
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▲現状―東端より西向きに撮影 |
★大厩館と大厩氏
1565年(永禄8年)2月12日、小田原の北条氏は酒井氏の本拠土気城(村田川水源、千葉市緑区土気)を攻めた。このとき土気城主酒井胤治が救援を求めるべく越後の上杉謙信(の家老河田氏)にあてて出した書状(河田文書)が残っている。そこに「於宿城臼井衆、原弥太郎、渡辺孫八郎、大畑半九郎、大厩藤太郎、鈴木始五十餘人討取候」とあり、北条氏方の主力として酒井氏を攻めた原氏の配下の中に大厩藤太郎なる人物がいたことがわかっている。大厩館は、戦国期の居館であるとすると、この大厩氏の居館である可能性が少なくない。大厩の地は、原氏の拠城、北生実城の約4km南、村田川河口近くに位置している。原氏の勢力圏内にあり、かつ内房から土気をへて外房に至る水運ルート沿いにある点からみて、人員物資を供給・輸送するなど1565年の土気城攻めに重要な役割をはたした地域のひとつであったのではないだろうか。
★千葉宗家刺殺事件
どこまで史実か不明であるが、史伝類は次のような事件を伝えている。1585年(天正13年)5月1日深夜、本佐倉城内で、千葉宗家、23代当主千葉邦胤が家臣桑田万五郎(鍬田孫五郎?)に刺殺されたというのである。万五郎は生実に一時潜伏していたが、上総の菊間村で捕らえられ、草刈村で斬首されたという。大厩の地名こそ出てこないが、菊間と草刈は大厩の西と東の隣村であり、大厩館の主の領内であった可能性が小さくない。史伝類では、犯行の動機は、同年1月、新年の祝賀の席上、万五郎が放屁をしたのを邦胤が衆人の前で叱責したところ、万五郎が逆恨みしたという私怨にあるとされている。放屁で殺人・・・しかし前後の状況からでしかないが、政治的陰謀による暗殺の可能性が指摘されている。邦胤の死を利用して、北条氏政は、その七男、直重を邦胤の養子として千葉家の家督を継承させ、千葉家領内への北条氏の直接支配を進めたからである。万五郎が逃亡・潜伏した先が、生実であったことは偶然だろうか。万五郎は、北条氏の兵站基地となりつつあった浜野湊から海路、北条氏の直接支配地である武蔵方面に逃がしてもらうつもりだったのではないか。暗殺実行犯の身にしばしばふりかかるように万五郎は黒幕により消されたのではないか。――史料に基づく堅実な解明がなされることを期待して、空想はここまでとしておこう。愚かとみるか哀れとみるかはともかく、万五郎の物語はこの大厩付近を最後の舞台としていた。
(参考)千葉介邦胤@千葉一族
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